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ふくの立ち泳ぎ
 
「あれえ、このふく、チロウテオウヌイチョル。なしてかのう」
ふく供養が近づいて、下関駅のミニ水族館に「活きふく」が放たれた日のことだ。
構内を行き来する人びとは、恒例となった 活きふく展に気づくと、たいてい、足を止めて水槽に近づく。
その人だまりの中から、 唐突に、お国なまりが飛び出した。
「二匹並んで天を仰ぎながら泳いでいる。どうしてだろう」と、共通語で解説すれば味もそっけもない。

この言葉、久しく聞かなかった。
あまりの懐かしさに、ふと振り返ると、アメンボのような老人と、ギンブクにも似た老婆が楽しそうに水槽をのぞき込んでいる。
相撲でいえばソップ型とアンコ型で、その取り合せが面白い。
 
ガラスの箱の中では、悠然と泳ぐふくたちのド真ん中で、確かに二匹だけが「オウヌイテ」いる。
尾びれを玉砂利に軽く付けたトラフグのカップルは、そっと寄りそい水面を見上げたまま、ゆらゆらと揺れる。
いわゆる「ふくの立ち泳ぎ」だ。

 何を思い、何を語り、何を夢見て空を泳ぐのか、その様子がとてもユーモラスで、人びとの微笑みをさそう。
似合いのカップルは尾びれと背びれをぴんとのばし、胸びれとしりびれをわずかに動かしつつ水中に静止しているが、腹びれがない。
そばを泳ぎ回るふくたちも同じだ。
あとで図鑑を調べてみると、腹びれのないのもふくの特長の一つであるらしい。
 
二十センチくらいの可愛いトラフグから一メートル近い馬鹿でっかいものにまじつて、黄色いひれと太く白い縞が美しいシマフグものんびり泳いでいる。
いずれも厚ぼったい唇を少し開けて、その間に見える薄桃色の舌は常にちょろちょろと動く。
水槽の回りの人だかりに、しきりに何かを話しかけているようだ。
澄みきった目は絶えずキョロキョロと動き、それでいて時に、うつろになり、その表情には、ある種の寂しさがただよう。
 
よく見れば、しりびれや胸びれを傷つけられたふくも多い。
フグの噛み合い」と呼ばれる習性で、イケスや水槽などの狭い場所ではふく同士の噛みあいも激しくなるという。
あのとぼけた表情のどこに、このような残虐性があるのだろうか。
 それはともかく、妊婦の歩く姿を「フグの立ち泳ぎ」と言うと、何かの本で読んだ
ことがある。


(注)下関駅のミニ水族館は現在は下関駅にはありませんが、「ふぐ」は唐戸の海響館でご覧になれます。

ふくのシロとクロ
 
各新聞の地方版に、関係者以外にはあまり読まれない囲み記事がある。
それは「あすのこよみ(旧暦と潮の干満など)」と「手形交換」と、下関漁港の「出船入船」、それに鮮魚、青夏、鶏卵、生花などの動きを知らせる「下関市況」だ。

 その中の「唐戸魚市」の項に「生フグ白一九〇〇〇、一二五〇〇」とあれば、それは「ふく仲間でも最高の生さたトラフグの 高値と安値」を発表したもので、この数字は、またたくまに全国の魚市場を駆け巡ったというわけだ。
南風泊市場で真夜中の三時ごろにせり落とされた値段は、四時前には東京の築地中央卸売市場に届いている。
その早さはジェット機以上だといえよう。

ところで「下関市況」欄を見ると「生フグ白・黒」「死フグ白・黒」とあって、少なくとも四つの種類があることがわかる。
「生フグ白」は「白生き」とも呼ばれ「生きたトラフグ」のことで、ふく仲間の最高級品、「死フグ」は「死んだフグ」で、せり値も半値に近い。

「白」「黒」の区別は、一般には「シロ」「クロ」で表記されるが、どちらもマフグ科トラフグ属である。
一ただ違うのは「シロ」が、トラフグ属のトラフグであるのに村して「黒」はトラフグ属カラス(ガトラともいう)である。
「シロ」「クロ」の違いは、しりびれの色から名づけられており、「シロ」は胸びれの後ろに大きな黒い紋がある。
全長は約七十〜八十センチ。「クロ」はトラフグとそっくりの形態をしているが少し小さく、しりびれが黒い。刺身にすれば「シロ」は透き通って美しく、味覚も最高だが、「クロ」はやや赤みがかっていて味もいくらか落ちる。

「下関市況」には、ふくの種類として「生・死・白・黒」の四つがあげられているが、世界に生息するものは百種以上だといわれている。
その中で日本近海でとれるものは三十種とも四十種ともいわれ、はっきりした種類はつかめないらしい。
それらの主なものをあげてみると、トラフグ属、サバフグ属、キタマクラ属、モヨウフグ属と区分されていて、トラフグ属には、トラフグ、カラス、シマフグ、メフグ、クサフグ、ショウサイフグなどがある。

シマフグは、背面から尾びれにかけて流れる太い縞模様が美しく、ひれは黄色である。
クサフグは暗い青緑色に小さな白い斑点があり、十五センチ程度で、五、六月ごろ、群れをなして泳ぐ。小さいくせに猛毒をもっており、砂にもぐる習性からスナフグとも呼ばれている。
ショウサイフグは、一般にナゴヤフグと呼ばれているが、下関では、ふくの呼び名の通り、ナゴヤフグで知られている。
一般家庭ではこれをぶつ切りにして味噌汁に入れ「ふくちり」にするが、小さいものは干物などにも使われる。
ふくの種類はまだまだあるが、それは専門書にゆずろう。

ふくはいつごろから食べられていたか
 
ふくは六千年も前から食べられている、と言われている。
それは縄文時代のことで、日本人はまだ竪穴住居に住み、農耕の方法を知らなかった。
だから、生きるための糧は、漁労と狩猟で、そのほかには草や木の実を採って食べるのが精いっぱいであった。
そのころの食生活を知る貴重な遺跡に貝塚がある。貝は、採取が非常に容易で、生でも食べられ、乾燥させても焼いても、いずれにしても簡単でうまい。つまり、古代人の最も好む食糧の一つであったわけだ。

あちこちに多く分布する貝塚からは、約三百五十種の貝類が出土しているといわれる。
だが、その中には貝だけではなく、魚の骨や歯なども含まれている。
主な種類としては、タイ、スズキ、フグ、ブリ、カツオなどがあげられ、その数も約四十種に至るという。

「貝塚の遺物からみると、古代人はかなりふぐ党であったことが推測される」と書いたのは『ふぐの本』の著者・海沼勝だが、彼はその中で 「タイ、スズキ、ブリ、フグなどは、いずれの貝塚からも発見されている」と、その幅広い分布に注目している。
やはり、ふくは日本人によって六千年も前から食べられていたことになる。
しかし、それはあくまでも、遺跡による推測だけで、本当はもっと古くから食用されていたかもしれない。
人類の祖先といわれる猿人の起こりはニ百万年前で、魚類は四億年以上も昔のことだ。
その中で、ふくは三千万年前に発生したものだといわれる。
人間の歴史より想像もつかないほどに古くから生き続けているふくではあっても、生存競争に先輩・後輩の秩序なんぞあろうはずがない。
どんなに不気味な形態をしていようとも、本能の命じるままに胃袋に納めないではいられない人間のことだ。人類発生と同時に食べられたかもしれない。

ところで、下関近郊の貝塚からも、ふくの骨は出土している。安岡の潮待貝塚がそれで、「約二千五百年前」のものだという。
この貝塚からは、ウニの針も出土していて、下関名物の歴史的実証の地ということができよう。
 

天皇の料理番とふく
 
かつて天皇の料理番をつとめた秋山篤蔵は、福井県に生まれ、明治三十年代に上京して、苦行の末、宮内省大膳寮司厨長になった文字通り日本一の料理人だ。
フランスで修業し、フランス料理を得意とした秋山篤蔵も、やはり日本人。仕事を離れると、ふらり街に出て日本料理を好んで食べた。

関東大震災に壊滅した東京が、復興の槌音を響かせていたころ、京橋の一角に「関屋」というのれんがかかった。
「馬関のふくを食わせる店」という評判はまたたくまに広がり、多くの文士や歌舞伎俳優らが関屋の上得意客となつた。
秋山篤蔵もひいき客の一人で、週に一、二度は必ずやってきて、楽しそうにふくをつついて帰ったものだという。

関屋は、江戸時代から明治にかけて稲荷町で栄えた貸席・大阪屋の子孫、木村義男が東京進出を果たした店で、大黒楼、藤米、対帆楼などとともに、下関で早くからふく料理を食べさせてきた実績が買われて繁盛したといわれる。
関屋と秋山篤蔵の関わりについては、中原雅夫(元下関図書館長)がその著書『河豚百話』に次のような話を書いている。
木村義男からの聞き書きである。

東京に進出した関屋の開店挨拶状は久米正雄が書き、吉井勇や中村歌右衛門等多くの知名士が後援者としてその名を連ねた。
ある日、秋山がやってきてふくを食べたあと「ふくは美味かったが、料理人でもない人の名前なんか並べる必要なんか無いじゃないか」と木村をたしなめた。
またある時、菊池寛に「こんなうまいふくは、まだまだ工夫すれば、もっと美味しい料理ができる」と言われた木村が、そのことを秋山に告げたところ、「それは素人考えだね」と事もなげに答えたという。

ふくは何千年も前から食べられ、いろいろ料理しつくされていて、ようやく今の形に落ちついたのだから、これより美味い方法は無いだろう。という意味で、その淡々とした答え方がいい。
また、当時、毎日新聞社主催の料理博覧会が開かれ、関屋からもふく料理を出品することになったが、大皿を持ち込むこともできず、一回、五、六円も払って自動車で運んだという。
この博覧会への出品もまた秋山篤蔵の紹介であったそうだ。

関屋が東京進出を果たしたころ、浅草には中屋という店があり、ショウサイ鍋を一人五銭で食べさせて大繁盛していた。
酒が一升十銭から十二銭のころである。
これは相場よりもかなり安くした店であったが、それにしても関屋が払った自動車賃の額には驚かされる。

マリにもなったふく
 
戦時中、ゴムの輸入が途絶えてゴムマリが無くなり、子どもたちは豚皮のボールで遊んだものだ。
しかし、戦争の激化とともに豚皮が無くなると、今度は「ふく皮のボール」が出回った。
手触りも荒く、弾力性のない「ふくマリ」は、バットで打てばすぐ割れた。

だが、遊びの天才と言われる子どもたちは、それに応じた遊び方を発見するのに時間をかけない。
彼らはバットの代わりに握りこぶしで打つ「一銭野球」なるものを考案する。
戦後、良質のゴムマリが出回り始めてもなお全国に流行したこの遊びは、「ふく皮のボール」が生み出した子どもたちの知恵であった。

河豚の呼び名が「ふく」でなく「ふぐ」だと私が知ったのは、一銭野球が全盛のころだったから戦後のことだ。
しかし、ふくと呼び慣れた者にとってふぐという語感は実に他人行儀で馴染めなかった。
いくらホンブクはトラフグが正しいと言われても、ホンブクのほうが言いやすかったし、ナゴヤフグは絶対にナゴヤブクでなければならないと私は心に決めたものだ。

「フグが本当の呼び名なら、ギンブク、ドンブクは何と呼べばいいのか。
ギンフグ、ドンフグじやあ、まるで間抜けな魚の代名詞みたいじゃないか」。私たちは友人らと、よくこんな話をし合った。

ふくは「布久」
 
詩人・川崎洋が、こう言った。
「河豚のことを、下関ではふくと呼ぶそうですが、実際には料理屋でもふぐと書いた店が多いですね、土産品店をのぞいたら、焼きふぐというのもありましたよ」痛い指摘であった。

確かに下関では「ふぐ」「ふく」の呼び名が混同している。
下関市民のほとんどが濁らずに「ふく」と呼んでいたのは戦前のことだ。
だから今では五十歳前後から上の人がこの呼び方に愛着を持っている程度で、若い人は「河豚」と書けば必ず「ふぐ」と読んでしまう。
しかし「ふぐ」の呼び方はずいぶん新しく、東京方面の方言だと言われている。
ところが、千年以上前に書かれた『倭名類聚抄』には、すでに「布久」と書かれていて下関での呼び方が断然古いことがわかる。

ふくは福だから縁起がいいし、ふぐは不遇、あるいは不具に通じる。
ふくをたらふく食べて福を呼ぼう」、そんな看板が下関のあちこちに立っていれば術の印象も本場らしくなるはずで、やはり濁ってはならない。

ふく、もう1人の恩人
 
「下関のふくの恩人」といえば誰でも小野英雄の名をあげるが、もう一人、忘れら れない人がいる。
 その人は中尾勇。赤間町の稲荷神社の朱塗り鳥居の正面にのれんをさげる「ふくの宿・なかを」の先代社長である。
「なかをは、昭和二年、当時十七歳の中尾勇が店を開いて半世紀、水揚げから料亭まで幅広く経営を拡大してゆくなかで、昭和四十年代、大阪、東京のデパートヘも進出をはたすことで、遠隔のわれわれに馴染みとなった一軒だ」

 映画評論家で食通でも知られた荻昌弘の『味で勝負』という本に、こんな一節がある。
中尾の功績を実に簡潔に言いつくしている。
 中尾勇は明治四十二年、広島県尾道市で生まれ、旧制小倉商業に通ったが、そのころの友人に、火野葦平の弟で作家の玉井政雄がいた。
しかし、二人の歩む道はそれぞれ異なっていて、中尾は鮮魚問屋に奉公したあと、昭和二年に下関で鮮魚仲買商をはじめる。

当時は下関市内でもふく専門店は二・三件しかなかったという。
 戦後、彼は下関唐戸魚市場の創設にも参加し、仲卸人組合長や出荷加工組合理事長などもつとめたが、彼の一番の功績は、「ふくの大衆化」への努力で、それは東京、大阪のデパート進出を手がけたことである。

 彼は四十年に「なかを」を有限会社に改組して、大阪高島屋、・心斎橋そごう、阪神百貨店、神戸三宮そごう、新宿京王、池袋西武、横浜高島屋、千葉そごうと、次々にチェーン店を開いた。
 また、地元下関でも、大丸やシーモールで「ふくのなかを」ののれんをさげ、航空便輸送をはじめたのもまた彼の発想であった。
下関のふくの育ての親・中尾勇は二カ月の闘病に耐えながら昭和五十五年九月、下関唐戸魚市場創立三十周年の祝賀の翌日未明、七十一歳の生涯を閉じた。

馬関の味・ふくの宿
 
「ふくのなかを」の先代社長中尾勇が某紙記者の「ふく資源は?」と言う問いに対して「ふくは取るほど他の魚の保護になるんです。だからどんどんとっても大丈夫。
それにハエナワですから資源の枯渇はありません。一ピキが五十万の卵を生むんですよ」と答えたことがある。

 そんな彼が「ふくの枯渇」をテレビで訴えた。
中国や北朝鮮の漁船が、軍事警戒ライン内で取ったふくを日本に持ち込みはじめたころのことだ。ふく資源は無限だといいながら、一年も立たないうちに絶滅を訴えるその矛盾が私には理解できなかった。
 ところが、それから何ヶ月かたって唐戸の三好屋喫茶室で中尾勇に会う機会を得た。
私は、わだかまっていたことをそのまま口にした。
木炭を二つくっつけたような濃い眉をヒクヒク動かし、しばらく私をにらみつけたのち中尾は怒ったように言ったものだ。

 「ふくは延縄でなけりゃあいかん。
網で根こそぎやられたんじゃあ、なんぼあってもすぐに無くなってしまう。
しかも、今じゃあ、日本人までが五島や天草海域では網で底ざらえをやりよる。
自分で自分の首をしめよるようなもんじゃが、それが少しもわ かっちょらん」

 歯に衣着せぬ一本気な言い方が聞く者にも快かったが、私は話題を変えた。
いつかの新聞に、映画評論家の荻昌弘がなかをで井川克己市長(当時)と「ふく談義」を開いたという記事が出ていたことを思い出したからだ。
 とたんに中尾勇の相好が崩れた。
木炭まゆがくるりと円をえがき、福耳を赤らめて童顔となった。
 「荻さんはとても喜んでくれてね。
下関はさすがに本場だ。下関で食べたら、東京のフグなんか食えたものじゃないと、何度も言ってくれたよ。
いい人だよ。荻さんは」 あの日の厳しいまなざしと、いたずらっ子のような笑顔のやさしさは、今も私のまぶたにやきついている。

かつて、西国一の花柳界といわれた稲荷町の名残をとどめる朱塗りの鳥居のそばを通る時、私は今でもそっとなかをの玄関をのぞき込む仕草をして通りすぎるが、それは、中尾がひょいと出てきそうな気がしてならないからだ。
庭先にはいつも打ち水がしてあり、大和カナで書かれた「割烹・なかを」の看板と、その奥には元下関市長・福田泰三の揮毫による「馬関の味・ふくの宿」の扁額も掲げられていて、ここの玄関は下関の顔といってもいいだろう。


ふく供養
 
ある年の「ふく供養」の話をしよう。
 あいにく、降りしきる雨の中であったが、それでも集まった人びとは四百人を超えていた。会場を飾る大型花輪は百対以上。
地元はもとより、東京、京都、大阪、あるいは札幌、金沢と全国から贈られていて、知名士の葬儀でもこれほどのものは見られない。

 築地ふく源、東京さんとも、ざこ万、浅草三浦屋、千葉ふく光、札幌吉蝶、札幌八百亀、金沢小川などと書かれた花輪を一つ一つ見て歩くと、それだけで日本の「ふく処」地図が描けそうだ。
 祭壇では八キロもあろうかと思われるでっかいトラフグが大ザラの上で口をぱくぱくと開き、五人の僧りょによる読経を珍しげに見上げる。

最近は水槽で泳がされているが、水の上では読経も聞こえないかもしれない。
祭壇の大ふくは小さな目をキョロキョロさせて、しきりに愛敬をふりまく。
 「まずもって、ふくドノに対し」と、当時の下関ふく連盟会長・小野英雄が慰霊のことばを述べはじめると、大ふくは「フムフム」と、うなずく。
「豊後水道のふくの漁獲は前年の約七倍でしたが、ふくドノ、今年は他の海域にも呼びかけて昨年以上の成果があがるよう」とつづける小野会長のことばに耳を傾け、ふくは「ウンウン」とあごで大ザラをたたいた。

 祭壇のふくが愛敬の限りをつくしたのは、そのすぐあとだった。
ふく連盟名誉会長でもある下関市長が「ふくドノ、とつい敬称をつけて呼びたくなるのですが、全国に下関の名を高めている点では貢献度ナンバーワン」と、弔辞を読みはじめたとたん、ふくは大暴れ。
頭を振り、腹をゆすり、尾を横なでにゆり動かして、そのあげく、祭壇から転げ落ちてしまった。

 焼香は、東京ふぐ連盟会長ら遠来の参列者から始まり、人びとがふくの冥福を祈る長時間は、会場に尺八の音が流れた。
都山流下関涛琳会員十人の合奏で、これは下関唐戸魚市場で常務をつとめた森邦男の好アイデアが生かされたのだと聞く。
そういえば森は知る人ぞ知る都山流尺八の名手で、号を明山という。
 式のあとは恒例のふく放流。参列者は観光船に乗り込み、五十匹のトラフグを小雨けぶる南風泊港の海に放った。ふくのシーズンは、この供養祭で一応終わりを告げる。

西施乳とは白子のこと
 
松尾芭蕉の『奥の細道』に「象潟や雨に西施が合歓の花」という句がある。元禄二年六月十七日の作だといわれている。

 西施はセイシ、あるいは、シイツウと読むが、ふくの異名に「西施魚」というのがあって面白い。
『新世紀大辞典』をみると、西施について「中国春秋時代の越の美女。
もと、まき売りの娘。越王匂践が、呉王夫差に破れたのち、宿敵・呉王のもとに送られ、好色の呉王は彼女におぼれて国を滅ぼした」と説いている。
いわゆる「傾城の美女」 というわけだ。

 中国の詩人で、のちに文部大臣にまで昇進した蘇軾が九百年前に書いた『東坡異物誌』という本には「魚に西施と名づける ものがある。美人魚なり。
広中・大海に出てこれを食へば、人をしてよく媚びしむ」とある。

 大きなおなかを抱え、ふくれっつらをしながらもユーモラスなふくが、何故、傾城の美女にたとえられるのであろうか。
 ところで、ふくの白子を、中国では西施乳と呼んでいる。
『広辞苑』の「西施乳」の項をひもといてみると「(味のうまいことを西施の乳にたとえていう)河豚の異称」と、三百年前発刊の『本朝食鑑』を引用している。
これは明らかに間違いで、西施乳は、ふくの白子でなければならない。

「とろーっとしている。そんなにねばっこい感じではない。口中にふくませると、むしろさらっとした片栗のそれを思わせる。
適当な甘みと、ジーンとくるような、つかみどころのない丸い味、舌にのせると、つるっと喉を通してしまう。
やれ、しまったわい。舌の中でもう一度味をとる。
しばらく間をおいて、舌鼓みを打つ。確かにうまい。
大きく息を吸い込みながら、ぐうと胸を張る。白子の味であり、フグの醍醐味である」

 大阪で「ふぐ博物館」を経営し、「ふぐ博士」と呼ばれる北浜喜一は白子のうまさをこう表現している。
白子の微妙な味を巧みに書き表している。
白子は雄の精巣であり、雌の卵巣は「まこ」と呼ばれる。
北浜喜一が「うまい、うまい」と連発する白子の美味と、雪のように白くやわらかいその姿を、中国人は西施にたとえて西施乳と名づけたのだ。
 ついでに、ふくのキモを西施肝とも呼ぶが、これも猛毒を有するキモを食べると、一国を失うどころか、一命までもとられてしまうところから名づけられたものだろう。
とすれば、ふくに西施の名を冠したのは、白子が先で、次いでキモとなり、これらのいきさつを経て西施魚と呼ばれるようになったのではなかろうか。


小野英雄回想集「ふくに生きる」より抜粋